死者の意思

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2023年3月01日
Laura Michet

民にとっての〈真実の担い手〉となるずっと以前から、イラオイは海岸近くにあるブールの寺院で侍祭を務め、海辺で朝日を浴びながら運動するのを日課にしていた。そんな彼女の頭にあるのは師たちが尊ぶ信条、すなわち規律、動き、強さだけだった。

ある朝、彼女がひとりで海辺にいると、海面が急に低くなった。干潮時よりもさらに低く。大蛇呼びの塔の見張りたちが警鐘を鳴らし、水平線を指さした。

見ると、大波がそびえていた。それは骨を砕き、遊泳者たちを引き裂くほどの強さで岸に迫っていた。

警鐘が鳴り響いたあとの数秒間、イラオイは恐怖で何も考えられなくなっていた。師たちの教えは頭からすっぽりと抜け落ちていた。逃げだす時間はあるだろうか?彼女は考えた。それとも、このままここに立っているべきだろうか?

彼女は波を、それから波打ち際を一瞥した。足元にピンク色の蟹が群がっていた。大波が海水を吸い込み、蟹たちは濡れた岩の上でぴくりともせず、陽光と驚きと逡巡に身をすくませていた。

小さな生き物たち。あまりに小さすぎて、自分たちが感じている恐怖を理解できずにいる。一匹の蟹があんな波を避けるためにできることはあまりなかった。

イラオイにはあった。彼女は勇気を奮い起こすと、寺院を目指して走った。女司祭らが門を閉ざそうとしていたが、すんでのところで間に合った。寺院の欄干に腰をおろし、先ほどの大波が海岸に打ちつけるのを眺めながら、イラオイは恐怖のあまり立ち尽くしていた自分を思い返していた。

私はさっき死んでいたかもしれない。それはこの世に生を享けてから16年のあいだで、イラオイが最も死に近づいた瞬間だった。

「もう二度とあんな真似はしません」彼女は師たちにそう告げた。“母なる大蛇”ナーガケイボロスは成長する者、変化する者を愛した。波に呑まれようとしているのにこれまでどおりのやり方を続けようとする者に対し、イラオイはなんの同情も持たなかった。




近ごろのビルジウォーターの街は、どことなくあの恐怖に固まった蟹たちを思い出させた。

正午。太陽は高く、暑かった。ふだんであれば、通りは上陸休暇を祝う船員たち、稼ぎを浪費する海のモンスターハンターたちでにぎわっていた。だが、今日は様子がちがった。静かにこうべを垂れ、脇見もせず足早に歩く者であふれ返っていた。

ビルジウォーターでは今まさに内戦が勃発しようとしていた。が、これは今に始まった争いではなく、熱意あふれる争いでもなかった。サラ・フォーチュンとガングプランクのおなじみの戦い。そんなことが可能なら、100回でも繰り返されているであろう戦いだった。ガングプランクは自らの玉座を取り戻すことを望み、サラはそんな彼の死を望んでいた。ビルジウォーターの街には、ふたりの心の内のように淀んだにおいが充満していた。ふたりとも、この戦いに勝利すれば、自らが失ったものが与えられると信じていた。おそらく、敬意が。とうの昔に失われた命にとっての裁きが。敗北と失敗の痛みを和らげてくれる何かが。

この両者のうち、どちらか一方でもどうでもいい存在なら、もっと気が楽なのだが、とイラオイは思った。しかし、サラは彼女の無二の親友であり、ガングプランクは元恋人だった。そして今、ふたりはかつてないほど過去に囚われ、自分たちの可能性をどぶに捨てようとしている。

イラオイは小脇に抱えた錠箱を一瞥すると、「これはお前のせいでもあるんだぞ」とつぶやいた。

錠箱はイラオイに向かって叫び返した。

近くで耳をそばだてなければ聞こえないような、小さな、静かな叫び声ではあったが、イラオイがその声に意識を集中させようとすると、決まって忌々しい存在が心の片隅をひっかきまわしはじめるのだった。

この錠箱のなかの“そいつ”──昼夜を問わず、イラオイに恐ろしい、くぐもった罵声を浴びせるそいつ──こそがすべての元凶だった。

サラの魂に影を植えつけた張本人だった。

ちょうどそのとき、サラの手下の船員たちが角を曲がってやってきた。その全員がベルトにカットラスと拳銃をさげ、拳を真鍮で飾っている。彼らは血と汗と硝煙に染まっていた。激しい戦いをしてきたのだろう。

そんな彼らのなかに、もちろんサラ・フォーチュン本人もいた。疲労困憊し、洒落たコートの右袖は血に濡れていた。肩はさがり、帽子を目深にかぶり、まるで彼女だけに感じられる冷たい雨に頭上から激しく打たれているようだった。

「ああ、イラオイ」サラは呼ばわった。その声は平板で刺々しかった。「さっさと終わらせてしまおう」

「大丈夫なのか?」イラオイは訊いた。「ひどいありさまだな」

「この一週間、ガングプランクを追っていた」そう言うと、サラは静かな叫び声を漏らしている錠箱を指さした。「それに、そいつもまだこの島にある。行くよ、この件に片をつけよう」

彼らは近くにある遺物商の店に向かった。サラの手下たちは銃を抜き、見張りをするために外に残った。イラオイはサラを先導して店内に入った。

ふたりが入ると、店主の眼にはめられたルーペが輝いた。「イラオイ!久しぶりだな!」

ジョーデン・イルックスは華奢な男で、膝と肘がてんでばらばらの方向を向いていた。彼は ペイランギ(本土の子孫である住人の呼称)とブールの文化がごちゃ混ぜになったこの街で、ただひとりの遺物商でもあった。見たこともない遺物を鑑定してもらうために、イラオイはよくこの店を訪れていた。

「あんたに解いてほしい謎がひとつあるんだ、ジョーデン」イラオイはそう言うと、錠箱をカウンターの上にどすんと置いた。

「ふたつだな」彼は言い、サラを見た。「こんな店にフォーチュン船長が直々にお出でとは!」

「変に騒ぎ立てないで」サラは不満そうに言った。「こっちはさっさと終わらせたいんだ」

イラオイの鍵が錠箱のなかでかちりと音をたてた瞬間、サラは身震いした。弱々しい光が壁に青緑色の線を描いた。

箱のなかにあったのはアミュレットだった。ブール様式で彫刻された曲線状の三つの石が、細いワイヤーでつながれている。石はそこに閉じ込められた魂の光によって、まばゆく輝いていた。

「こいつはひどい」今ではジョーデンにも石の叫び声が聞こえていた。「女神の名にかけて、こいつはもしや…」

イラオイはうなずいた。「そう、カマヴォールのヴィエゴだ」

この古代の王の怒れる霊がビルジウォーターをもうもうと煙る大穴に変えようとしたのは、ほんの一週間前のことだ。今や街の全住民が彼の名前を知っている。そして、思い出すことすら嫌悪している。 このアミュレットから解放されるようなことがあれば、ヴィエゴはまた同じことを繰り返すだろう。

「その場しのぎでこうしてるんだけど」サラは言い、短く、苦い笑い声をたてた。「私たちはヴィエゴを永久に葬り去るすべを見つけられなかった。あいつをここから解放したら、どんなことになるか見当もつかない」

イラオイはうなずいた。「ブールの史家によると、この石はサーペントアンバーでつくられている…ただ、石を砕いたらあいつを解放することになるのか、それとも殺すことになるのかはわからない」

「“女神の涙”だと?まあ当然か」ジョーデンは言った。ブールの言葉で“女神の涙”はサーペントアンバーを意味する。「実に貴重な石だ。砕こうなんて考えるのは愚か者だけだぞ」彼は身を乗り出し、ルーペを調節した。「ブールの職人の手によるものだな。我らの民の業であることは一目瞭然。しかし、裏に印があるな…これはいったいどこで…」

イラオイは笑った。「シャドウアイルさ。私らの民はシャドウアイルの学者たちと一緒に研究していたんだ。あの諸島があんなふうになっちまうまえにね」万一ヴィエゴが逃げ出したら、ビルジウォーターも同じようにねじれた墓場と化すだろう。

「ちょいと調べさせてくれ」ジョーデンはスツールから跳びあがり、店の裏手に消えた。

ちくちくと痛むような時間が半秒ほど続き…サラがイラオイに向き直った。「あなたが言いたいことはわかってる」彼女は歯ぎしりするように言った。「だから言わないで

「何も言うつもりはない」最後の喧嘩以来、真実をどれだけ繰り返したところでサラの耳には届かないとわかっていた。「あんたがガングプランクを追ってどれだけ無意味なことをしようと、それで街がどうなろうと、口出しするつもりはない。それどころか、気まずい沈黙を味わわせてやろうと思っていたところだ」

サラは顔をしかめた。「今週はひどい一週間だった。これ以上悪くしないで」

ふたりが黙ったままでいると、ジョーデンが勢いよく店内に戻ってきた。手にしている巻物には、イラオイには理解できない奇妙な文字がびっしりと書かれていた。それから何かの絵…塔だろうか?

「見ろ」ジョーデンがアミュレットの裏側を指さした。巻物と同じシンボルが刻まれている。「つくったやつのサインさ。“夕闇の兄弟団”の」

「陰気な名前だね」サラが言った。「聞いたことない」

「ブレスドアイルの教団さ。とうの昔に全滅した」

「ちっ」サラはかぶりを振った。「じゃあ、袋小路か」

それを聞いてジョーデンはハッとなった。「待てよ──忘れてた。我こそが兄弟団の代表だとか抜かしてる、頭のおかしな隠者がいるんだ。けど、あそこに長くいすぎた人間がどうなっちまうかは、あんたたちも知ってるだろ」

かつてブレスドアイルを故郷と呼んだ、幸せな民。そのねじれた霊たちはよき隣人とはいえなかった。黒き霧の影の下を1000年ものあいださまよった彼らは、ほとんどがレイス、亡霊、ミストウォーカーとなっていた。定命の者の弱さを邪悪な形で永久に映し出した、歪んだ存在。そんな霊たちと生きることを選んだ者がいるとしたら、並外れた強さを持っているにちがいない。おまけに、並外れた変人にちがいない。今のシャドウアイルに居をかまえる者のなかには、死と病を…それから、どういうわけか蜘蛛を信奉する者もいる。

だが、イラオイがこれまでに会ったことのあるシャドウアイルの住人は、偶像でヒトデのようにぺしゃんこに叩き潰せる者ばかりだった。「そんな連中、怖くもなんともない」イラオイは言った。「数週間前、私たちはシャドウアイル最大の強敵だったスレッシュを倒した。あいつに比べたら、隠者ごときはなんでもない。きっとアミュレットのことも知っているはずだ」

ふたりはジョーデンへの支払いをすませると表に出た。「まさかあなたをもう一度シャドウアイルに送り込むことになるとは」サラが申し訳なさそうにつぶやいた。

イラオイはうなずいた。ヴィエゴをアミュレットに封印するまえ、ふたりはヴィエゴを追い、シャドウアイルで戦った。倒壊した廃墟で友人たちと野営をしたり、焚き火を囲んで食事をしたりするのは楽しい経験だったが、こんなにも早くあの地に戻るのは気が乗らなかった。それも、ひとりで戻るのは。

「船が必要になる。私に借りがある船長がいるの。名前はマッテオ・ルーヴェン。そいつがシャドウアイルに向かう安全な航路を知ってる。でもアミュレットのことは知られないようにね」

「私たちが信頼できるようなやつは、もうあまり残っちゃいないからな」イラオイは同意した。

突然、サラは顔を赤くし、眉根をぎゅっと寄せた。

余計なことを言ってしまった、とイラオイは悟った。 サラはのことも信頼していないはずだ。というのも、イラオイはガングプランクとの向こう見ずな戦いに加わるつもりはなかったからだ。

「あんたがまだ私に腹を立ててるのはわかる」イラオイは言った。サラが耳を貸そうとしない言葉を、これまでとはちがう言いまわしで伝えようとして。「でも私の友情には…喧嘩がつきものなんだ。それと、変化が」

「私にはヴィエゴがアミュレットのなかで言っている言葉が全部聞こえるの」サラはそう口にした。「その話はしたっけ?昼も夜も、ずっと。ヴィエゴは…私の母さんの話をしてる」サラは声を詰まらせ、顔をしかめた。「街のどこにいても、箱のささやき声が聞こえてくる」

女神よ。それはさぞつらいことにちがいない。

イラオイは友を抱きしめた。そうしなければならない気がした。サラにどう思われようとかまわなかった。

一瞬、サラは身がまえたが、すぐにイラオイを抱きしめ返した。サラの目尻から涙がこぼれだした。「うう…いたたた」彼女は苦しげに息を吐いた。「わかったから。もう大丈夫」

「あんたには別の生き方がある」イラオイは言った。「もっといい生き方が」イラオイはそう信じていた。心の底から。だが、何度そう繰り返したところで、サラは決して理解しようとしなかった。

「もっといい生き方?」サラは潤んだ眼を拭った。「それはガングプランクに言ってやって」




確かにサラはルーヴェン船長に大きな貸しがあるようで、その翌日には、ルーヴェンの船トレインド・ラット号は出帆の手筈が整えられていた。

イラオイが到着すると、船上は出港準備を進める船員たちであふれ返っていた。ルーヴェンは指揮甲板から大声で指示を飛ばしていた。歳かさでスレンダー、節くれ立った肘、風を受けて後光のように広がるオレンジ色の縮れ毛。

こいつなら一撃でまっぷたつにできる。イラオイにとって、人間というのは二種類に分類できるものだった。一撃でまっぷたつにできる人間と、そうでない人間。そう分類することで、世渡りはずっと楽なものになる。

ルーヴェンは指揮甲板にあがってこいと手振りでイラオイを呼んだ。「あんたのことは知ってる。ブールの女王だな」

「大外れだ」イラオイは言った。「私は“真実の担い手”。巫女さ」こいつは面倒くさい種類のやつだ、と彼女は思った。

「そうか」ルーヴェンは肩をすくめた。「今、船はめちゃくちゃな状態だ。けど、船を出せと頼まれたのはたった12時間前のことだからな。そんなかぎられた時間じゃ、こっちもそれくらいのサービスしか提供できない」彼はイラオイを安心させるようにぎこちない笑みを見せると、握手しようと手を差し出した。「あんたのために、下に部屋を用意しておいた」

「出港は今日なのか?」イラオイは訊いた。

「そのほうがいい。でないとサラ・フォーチュンは俺の名前をリストに追加するだろう。波止場で処刑するやつのリストに」

船の通路はとても狭く、イラオイはやっとのことで偶像を階段の下におろすと、下甲板に置いた。海に鍛えられた金属製のこの巨大なオーブは、筋骨隆々なイラオイの肩幅よりもさらに大きかった。下甲板の天井はあまりに低く、偶像を背に担いで歩くのは困難だった。通路があまりに狭いため、脇に抱えて歩くこともできない。そのため、腰の上にのせ、蟹のように横歩きで大砲と大砲のあいだを抜けなければならなかった。

「ちょいとごめんよ」そう言いながら、イラオイが雑巾とバケツを持った船員たちの一団の脇を無理やり通り抜けていると、彼らが静かに毒づくのが聞こえた。イラオイの経験上、船員というものはつねに動きまわり、どんなことに対してもやる気を見せる──イラオイの好きな種類のペイランギだ。だが、この船の乗組員たちは不機嫌そうだった。海の塩と腐ったロープのにおいだけでなく、彼らの張りつめた恐怖が船全体を満たしていた。

ビルジウォーターの鬱屈がこんなところにまで。

船が錨をあげ、旋回して風をつかむと、イラオイはもう一度ルーヴェンと話をするため、風通しのいい指揮甲板にあがった。街の建物の輪郭が描くギザギザとした線は、すぐに高波と鳥の大群の向こうに消えた。

「こうしてビルジウォーターをあとにすりゃ、俺の悩みもきれいさっぱりなくなるってもんだ」ルーヴェンは笑った。

「あんたにとってはシャドウアイルよりビルジウォーターのほうが恐ろしいというのか?」イラオイは思わず笑みをこぼした。「確かに街の雰囲気は悪いが、シャドウアイルに比べたらかわいいものだ」

「アイルの霊は俺に個人的な恨みを持ってるわけじゃない」ルーヴェンは言った。「ところが、我らが恐れ知らずの女王ときたら…ここだけの話、俺は命があるだけまだ幸運だ」

イラオイは片眉をあげた。「何かやらかしたのか?」

ルーヴェンは咳き込み、神経質そうに笑った。「俺は彼女に借りがある。それで取引したんだ。あんたをあそこまで連れていき、帰ってくる。それで貸し借りなしだって」

貸しのある相手をシャドウアイルに送り込むのは、借金の取り立て方法として上策とはいえない。債務者がレイスか蜘蛛の犠牲になる確率がいささか高すぎるからだ。「あんたはサラにかなり大きな借りがあるようだね」

「ああ、俺は彼女を爆殺しようとしたのさ」

ほんとうか?

「といっても、ガングプランクのためにじゃない」ルーヴェンは両手で顔をこすった。「俺はただ、新しく制定された略奪手数料に反対だっただけだ。俺には知り合ったばかりの友達が何人かいて…そいつらが思いついたことだ」

それは運命に勇敢に立ち向かう男の、あるいは自らの選択の責任を取ろうとする男の言葉ではなかった。これではまるで、他人の気まぐれに翻弄されるだけの男ではないか。

「フォーチュン船長はそんな言い訳に耳を貸さないだろうな」イラオイは言った。「近ごろの彼女は、あんたのようなトラブルは拳銃で解決している」

「だな」ルーヴェンは声を落とした。「乗組員も…よくは思っていない。そのせいで上客を失う羽目にもなった。それで俺はフォーチュンのところに行き、こう言った。俺は使える人間だぜ。俺を使ってくれ。昔は親父と一緒にシャドウアイルへの水先案内人を務めていた。ほかの誰も知らない航路を知ってるんだ、ってな」

「他人にこき使われることは、魂の自由とはいえない」イラオイは言った。

「けど、処刑されるよりはマシだろ。そうだ、あんたはフォーチュンの友達だよな?彼女の敵でいるってのは消耗することなんだ。俺は情けないおっさんかもしれないが、まだ新しい芸当を身につけることはできる」

イラオイは彼を品定めした。その可能性は低そうだ、というのが結論だった。「あんたの生は淀みに支配されている。動きがなければ、求める自由は手に入らない。必要なのは魂を導いてくれる者だ…話術ではなく

ルーヴェンは含み笑いをした。「まあ、確かにそれも必要だな」

イラオイは嘆息した。どんなに淀んだ人間でも、心の奥底では流れが渦を巻いているものだ。そこでは魂はまだ動き、変化している。誰にでも、自分が価値ある人間だと証明するチャンスがあってしかるべきだ。

そして、イラオイにはわかっていた。この男が変われるのなら、サラだって変われるはずだ、と。

「よかったら話をしようじゃないか」イラオイは言った。「道中、その時間があれば」




ルーヴェンはの話し好きだった。

彼はイラオイに父親の話をした──雇われの水先案内人だったこと、ビルジウォーターで繁盛しているパブを日がな一日ハシゴしていたこと、“船長たちにたかってタダ酒を飲み、食い扶持を稼ぐ仕事を探していたこと”。ルーヴェンが一番必要としていたとき、父親はそばにいなかった。が、彼の弁によれば、シャドウアイルへの航路を見つけたことで、ひと財産を築いたらしい。

「向こうに着けばわかる。すごいんだぜ。諸島全土で唯一の安全な航路だ。向こうの浜辺でレイスを見かけたことは一度もない」

「大したものだ。あんたはどこで知ったんだ?父親が連れていってくれたのか?」

ルーヴェンは笑った。「まさか!親父は俺に海図を渡すと、無理やりはしけに乗せた。おかげでひとりで海を行く羽目になった。黒き霧のなかをひとりきりでな。親父は本船の上でぬくぬくしてやがった!」

「それは大したものだ」イラオイは言った。「シャドウアイルへの道を独力で切りひらけるような男なら、 自らの人生の舵を切ることもできるはずだ」こいつはサラに似ている、とイラオイは思った。この男のなかには偉大なものがある。まだ本人が見つけられていないだけで。

航海が終わりに近づいたころには、太陽の光は当てにならなくなっていた。午後になると“夕闇”が早々と太陽のまわりに広がり、陽光は不毛な灰色に呑まれた。黒き霧によって──少なくとも、そのほころびた終端によって。見張りに立つ船員たちの緊張は日ごとに増した。この霧に紛れれば、どんな種類の怒れるレイスだろうと、船に近づくのは造作もないことだ。

イラオイの信仰になびくのは、決まってシャドウアイルに行ったことのある船員たちだった。淀みに対する彼女の教えを聞くと、彼らはその意味を理解した。黒い砂浜。腐り、ねじれた、葉のない木々。つるりとした暗い石碑。波しぶきで湿り、堆積した古代の土壌に埋もれている。

そんな呪われたシャドウアイルが見えてくると、ルーヴェンは鼻につくジョークを頻繁に飛ばし、船員たちのしかめ面をからかうようになった。ブールの言葉で、こういう人間のことを 波かわしという。軽薄かつ怯えた動きで浜辺を前後に行き来し、足を濡らさないようにする者という意味だ。彼らは足を小刻みに何度も動かすだけで、大きな一歩を踏み出そうとしない。

ところが、シャドウアイルに近づき、丘陵のてっぺんに建つ寂れた塔が見えてくると、ルーヴェンは血迷ったような勢いで行動に移った。彼は自らの船室に姿を消したかと思うと、注釈と図が殴り書きされた大量の紙の山を手に戻ってきた。そして、航海士を追い払い、自ら船の舵を取った。ルーヴェンは今にも嘔吐しそうに見えた。

「いよいよだ、俺の価値を証明してやる」イラオイに向かってそう言うと、彼は帆桁にいる船員たちに向かって声を張りあげた。「半速!」

船は浜辺めがけて奇妙なダンスを始めた。急旋回のたびに、ルーヴェンは痩せこけた体の全体重をかけて舵をまわした。船の肋材がうめき、尖った岩の先端が、甲板から腕を伸ばせば届く距離にまで迫った。イラオイはルーヴェンの謎めいた海図に眼をやった。なるほど、サラがこの男を生かしておくわけだ。この男がどんな知識を持っているのであれ、それを翻訳することは不可能らしい。

岩窟に入ると船が止まった。砕けた岩々のおかげで、ここは外海からは見えなかった。海岸から見ても、絶壁のおかげで船のマストと帆が隠れている。こんなふうに安全に停泊できる場所は貴重だ。さらに幸運なことに、先ほど見えた塔の根元の修道院からもそう遠くない。

ルーヴェンは息を切らせ、ぐったりと舵にもたれた。「これで食い扶持を稼いでるだけのことはあるだろ」彼は言った。「フォーチュン船長に俺の仕事ぶりを伝えてくれよな」




船員20名ほど──全乗組員の半数以上──がこの任務のために上陸した。内陸に向かって数時間も歩けば、あの修道院に着くだろう。イラオイは偶像、中身をいっぱいに詰めた水筒、錠箱だけを持っていくことにした。

「はぐれるんじゃないよ」彼女は船員たちに言った。「我が女神はこの霧を侮蔑する。それゆえ、霧は女神の偶像を恐れる。固まって動けば安全だ。

船員たちはイラオイとルーヴェンの背後に陣取り、一行は森のなかに分け入った。イラオイの偶像が霧をかき分けると、進路の両脇に奇妙な建造物と植物が姿を現わした。すべてが腐敗の瞬間で凍りついていた。ブールの首都の要塞群よりも以前から存在していたような、からからに乾いた木々が、その脇を通り抜けようとする船員たちの顔や肩をこすった。

ほどなくして、彼らは小さな街の廃墟に到着した。崩壊しつつある壁のせいで、身をねじったりよじったりして藪のなかを抜けなければならなかった。ゆっくりと、一列になって、茂みのなかの狭い道を通った──どうやらこれは、かつては路地だったらしい。

乾ききった低木、高木はどれも同じに見えた。「あんた、行き先はちゃんとわかってるのか?」イラオイの背後で誰かが語気鋭く訊いた。

小さな、針金のような男だった。手入れされていないヒゲ、金歯が何本か。これまた一撃でまっぷたつにできる種類の男だ。

「ああ」イラオイは答えた。「もしそうしたければ、自分で道をひらくといい。どの方向がいいか教えてくれたら、お前をその方向にぶん投げてやるよ。あの霧のなかにな」

「クリストフ、黙ってろ」ルーヴェンが言った。「でないと、船に戻ったら営倉送りだぞ」

これがクリストフを怒らせた。「営倉送りされるべきなのはあんただろ、フォーチュンとあんなことになっちまって!」

「くだらない喧嘩は今すぐやめろ」イラオイは命じた。が、すでに全員がこの口論に加わり、彼らの大声が森じゅうに響いていた。

これでは敵を引き寄せてしまう。怒鳴り声の背後に、ざくっ、ざくっと静かな音が聞こえてきた。どっしりした土を踏みしめる足音のような。

突然、道の脇の茂みが激しく揺れた。枝と枝が互いにぶつかり合い、刃が骨をこするような音をたてた。鉤爪のような茨が手の形に広がった。あらゆる茂みと木に顔が見えた。罪を赦されることのない死者たちのような、朽ち果てた顔が。

口論は悲鳴に変わった──次の瞬間、茂みは勢いよく手を閉じた。道は一瞬のうちに消えていた。船員たちはあまりの恐怖に逃げだした。イラオイは彼らのうちのひとりが森のなかに駆け込むのを見た。が、男は節だらけの枝によって地面に叩きつけられた。その上に木々が覆いかぶさり、パニックになった男の悲鳴をかき消した。

あろうことか、ルーヴェンまで逃げだしていた。イラオイは木々のあいだを駆けていく彼の背中を見た。ルーヴェンは背後に海図をまき散らしていた。臆病者め、彼女が思ったそのとき、レイスたちが襲いかかってきた。

イラオイの一番近くにいた船員たちは反撃した。が、剣は無意味だった──茨の茂みを突いているかのように手応えがなかった。レイスたちは剣撃をものともせずに前進し、船員たちを尖った四肢で刺した。

イラオイは自分のほうに突っ込んできたレイスに対し、偶像を勢いよく振った。彼女の攻撃は正確だった。レイスの体は空っぽのバケツのような音をたて、砕け散った。もう一体が突進してくると、イラオイは強烈なパンチを繰り出した。レイスの体は腐った柵のようにまっぷたつに折れた。

女神よ、なんという充足感!

イラオイは筋力に特化した女神の化身だった。「ナーガケイボロスよ」彼女は叫んだ。「我らをお護りください」

彼女は偶像を宙に持ちあげると、泥のなかに叩きつけた。船員たちは足をよろめかせたが、レイスの群れは偶像の燃えるような緑色の光に弾かれ、空中を後退した。

ペイランギは決まって彼女にこう尋ねた。その触手はいったいどこから来ているのか?と。それに対する彼女の答えはこうだった。どこだろうと関係ない。女神はあらゆる場所にいまし、変化するあらゆるものに宿っている。どこにでも姿を現わし、何にでもなりうる。なぜなら、どのようなものであろうと、変化することができるからだ。

たとえばレイスは砕けた無数の小さなかけらに変化できる。

地中から触手の防壁が湧き立ち、レイスの群れをおがくずに変えはじめた。イラオイもそれに貢献した。茂みと木々が弾けた。節くれ立った木の頭部が鉢のように泥のなかを転がった。空高く飛ぶ一体のレイスがイラオイの視界をかすめた。それは翼を広げた鳥のように見えた。

そばにいたレイスたちが粉々になるのを見届けると、イラオイは偶像を肩に担いだ。触手は消えた。あとには不気味なほどの静けさだけが残っていた。逃げた船員たちの姿は影も形もなく、遠くからの悲鳴も聞こえなかった。死体すらもない。どこかに運び去られたか、根の下に埋もれてしまったのだろう。

「呼吸を整えろ」彼女は一行に命じた。「残っている者は?」

残っているのは七人だけだった。そのなかにクリストフもいた。「船長を捜しに行くべきか?」彼は気乗りしなそうに尋ねた。「ルーヴェンがいねえと、帰りの航海ができねえ」

イラオイは地面に落ちていたルーヴェンの海図の束を見た。泥まみれになっていた。イラオイはそれを拾うと、ルーヴェンに渡した地図を探し出した。汚れてはいたが、修道院への行き方はまだ読み取ることができた。

船上でのルーヴェンは進んで変化しようとしているように見えた。が、結局は臆病者に、淀んだ魂に逆戻りしてしまった。他者の気まぐれという潮に永久に翻弄される存在に。私があの男を救うとしたら、それはあいつを利用するため、ただそれだけだ。イラオイは思った。サラやほかの人間たちがそうしてきたように。

そもそも今は、負傷し、困憊した船員が七人残されているだけだ。そんな状態であいつを捜す?全滅は免れないだろう。クリストフにもほかの船員たちにも、そんな運命はふさわしくない。生者には変化し、成長する可能性がある、イラオイは思いを新たにした。だが、死者はちがう。

彼女はきっぱりと決断し、宣言した。「このまま前進だ。修道院へ。そこに隠者が住んでいる。そいつの慈悲にすがるとしよう」




ほどなくすると、霧のなかに修道院が浮かびあがった。よく手入れされているようだった──高い塔はアミュレットの刻印によく似ていた。

イラオイが門に近づくと、どこからかひとりの男が跳んできて、彼らの行く手をふさいだ。このあたりの獣にそっくりだったため、イラオイは危うく偶像で叩き潰しそうになった。

「待て!俺だよ」ルーヴェンがしわがれた声で叫んだ。

つかの間、一同は呆然と見つめた。ルーヴェンの全身は泥にまみれ、上着は血だらけだった。髪には朽ちた枝が引っかかっていた。巨大な岩蟹の群れに蹂躙されてきたかのようだった。

イラオイは安堵した──が、それは一瞬だけのことで、すぐに猛烈な勢いで怒りが戻ってきた。「さっきのお前は恥ずべきことをした」イラオイはぴしゃりと言った。「乗組員を見捨てて逃げるとは」

ルーヴェンはショックを受けたようだった。「俺に会えて喜ぶかと思ったのに」

「自らの責務を捨てるような男と会えて喜ぶものか!」イラオイは引きさがらなかった。「お前は自分を変えたいと言った。今日私が戦いの場で見たのは、変化を望む男ではなかった」

ルーヴェンは気まずそうに船員たちを一瞥した。クリストフは容赦しなかった。「あの霧をどうやって生き延びたんだ?」彼は尋ねた。

こわばった笑みがルーヴェンの頬についた泥にひびを入れた。「それは…その…」

「イラオイははぐれたら助からないと言ってたぜ」

ルーヴェンの表情が曇った。「知りたきゃ教えてやるが、俺はお護りを持ってるんだ。だから無事だった」

イラオイは腹を立てた。そのお護りとやらを、この男は独り占めした。遺物か何かのことか? 「お前の恥ずべきおこないについては、またあとで話し合うとしよう」彼女は言った。「まずは修道院のなかに入るぞ」

彼女は踵を返し、巨大な木製の扉をノックした。向こう側のひらけた空間でノックの音がこだました。そのとき、頭上で誰かが咳払いをして言った。「何者だ?」

肩幅が広く、頭にフードをかぶった人影が欄干から身を乗り出しているのが見えた。「我が名はイラオイ。ブールの“真実の担い手”。“夕闇の兄弟団”の代表たる隠者を捜している。ここでしばし難を避けさせてもらいたい」

男は一瞬硬直したあと、「なかに入れてやろう」と低い声で言った。「だが、修道院内のいかなる生きものにも手を触れるな」

生きもの?」船員のひとりがつぶやいた。

両びらきの扉がゆっくりと音をたててひらきはじめた。左右どちらの扉もイラオイの背丈の二倍以上の高さがあり、とてつもなくずっしりとしていた。扉が腕の長さほどひらいたとき、内側から扉を押しあけている者たちの姿が見えた。ミストウォーカーだ。

背を丸め、やつれた姿をした男、女の亡霊たち。長い手を引きずり、だらりとあいた口に牙が覗いている。だが、イラオイがこれまでに見たことのあるミストウォーカーとちがい、彼らはおとなしく、従順な沈黙を守ったまま、忠実な家来のように扉に体重をかけていた。

イラオイは驚き、身がまえたが、彼らが飛びかかってくることはなかった。彼女の背後で船員たちがめいめいの武器に手を伸ばした。

欄干の上の男が視界に飛び込んできた。「肝を潰したか?この者たちは俺の連れだ」

イラオイはこの男のような者を見たことがなかった。僧侶を思わせるローブを羽織っているが、体格は巨岩のようで、肩は鍛え抜かれ、筋肉が盛りあがっている。こいつは一撃でまっぷたつにできない種類の男だ。男は片手に大きなシャベルを持っていた。暗い、ごつごつした金属製で、土がついている。まるでこのミストウォーカーたちを今しがた土から掘り返したばかりのように。

男の両腕は袖に覆われていなかった。青みがかった色…それが男の素肌だった。

「あんたもミストウォーカーなのか?」イラオイは以前ミストウォーカーと組んだことがあったが、あれは心躍る経験ではなかった。死という淀みに囚われた者は生者に痛みをもたらすことが多く、それは神聖なる生に対する不浄な侮蔑なのだ。

男はほほえんだ。「俺が生きているかどうか尋ねているのか?」

「このあたりでは当然の質問だ」

「非常に個人的な質問でもある」彼は考え深げに肩をすくめた。「俺は…番人だ。さあ、なかに入れ」

中庭は木片や岩のかけらを運びなら墓石をよじ登るミストウォーカーでごった返していた。 彼らは来訪者の一団に見向きもしなかった。口はだらりとひらき、眼はうつろで、なんらかの奇妙な使命に突き動かされているように見えた。

「イカれてる」ルーヴェンが小声で言った。「あの男は軍隊を持ってやがる」

「お前と同じように、なんらかのお護りを持っているのかもな」イラオイは言った。「見ろ。黒き霧もあの男には手出ししようとしていない」

このやり取りは隠者にも聞こえていた。「手出しする必要がないからだ。霧は“乙女”に俺を見張らせている」

そう言って、彼は塔の頂を指さした。そこにちらりと人影が見えた。が、それはすぐに欄干の背後に姿を隠した。見られることを恥じらったかのように。

「乙女?」

「それもまた…俺の連れだ」

「ところで、あんたの名前は?」

「ヨリック」隠者は言った。「この地に留まった兄弟団最後のひとりだ」

イラオイは眼を丸くした。まさか。そんなはずはない。「最後のひとり?」

「俺はずっとここにいる。このいっさいが始まったときから」そう言うと、彼は霧にふさがれた空を指さした。「“滅び”が始まったときから」




ヨリックの住まいはイラオイの想像を超えていた。修道院の無人の広間はミストウォーカーたちの活動でにぎわっていた。彼らは掃き清められた床の上を黙々と歩き、そのいずれもが神秘的な任務に就いているかのようだった。

イラオイは鳥肌が立ち、口のなかが乾くのを感じた。恐怖ではなく、怒りからだった。ヨリックは死者を奴隷のように使っている。赦しがたい、唾棄すべきことだ。だが、それは口に出さずにおいた。この男がビルジウォーターの救い主になるかもしれないからだ。

「道中、災難があったようだな」ヨリックは一行を眺めて言い、螺旋階段を指し示した。「定命の者をもてなすようなものは何もないが、下の貯水槽に清水がある。暖を取れる火もあるぞ」

ほかの全員は下の階におりていったが、イラオイは戸口で待ち、眼下の庭を徘徊するミストウォーカーたちを眺めた。これがサラやほかの仲間たちと一緒にヴィエゴを倒す旅に出るまえだったら…そのときに、千年一日のごとく過ごし、安らぐことを知らぬ霊たちを率いる男に出会っていたら…イラオイはおそらく、その男をたちどころに殺していただろう。ナーガケイボロスも祝福してくれたはずだ。

ヨリックが彼女の脇に現われた。「俺に用があると言っていたな」

「そうだ」イラオイはやっとのことで冷静さを保って言った。「だが、霊たちがこんな扱いを受けているのは見るに忍びない」

「彼らはここに囚われているわけではない。それがお前の気にしていることなら」ヨリックは言った。「俺は苦しみを味わっている死者のためにこの諸島を調査している。彼らのなかには、しばらくここで俺と過ごし、それから去っていく者もいる」

「それで、あの者たちはいったい何をしている?」

「墓を立てているのだ。ここにいるのはブレスドアイルの民。俺と同郷の者たちだ。彼らは安らかな眠りを求めている」ヨリックはしばらく口をつぐんだ。祈りを唱えるかのように。「上階で、ふたりで話をしよう。俺の書斎がある」

塔は大きな暗色の石塊でできていた。石の表面は時の経過によってなめらかになり、灯火の煙によって黒い筋がついていた。イラオイとサラが訪れたことのあるヘリアの遺跡や地下墓所よりも年季が入っていた。

この男は1000年前に死んだ男のように、この墓に囚われている。まさに停滞の化身だ。だが、ヨリックの礼儀正しさのせいで、この男のことをどう考えればいいかわからなかった。

塔の頂の部屋には本棚がずらりと並び、窓から冷たく青い光が射し込んでいた。扉の脇にひと組の石の肩甲が掛かっていて、黒き霧の外套がそこから湧きあがっていた。そびえ立つ本棚のひとつのてっぺんに、暗い霧とまばゆい青い光の塊がゆっくりと形を結びはじめた。

「あれが乙女だ」ヨリックは言った。「何百年もまえから俺とともにいる」

「霊たちはいずれ去ると言っていなかったか?」

「彼らがその気になればな」ヨリックは自分たちの背後の扉を閉めた。「さて、お前がその気になったら、そのベルトの箱に隠されているものを見せてもらおうか」

イラオイは片眉をあげた。「感じるのか?」

「乙女から聞いた。それが誰の霊なのかを」

イラオイは首にかけていた鍵で錠箱をあけた。ヨリックは身を乗り出して箱を覗いた。彼のがっしりした体の周囲で、アミュレットの光が不吉なダンスを踊った。

「カマヴォールのヴィエゴ」彼は言い、ごつごつした大きな手を箱のほうに伸ばした──そして、動きをとめた。「滅びが始まって以来、こんな日が来ることを望んでいた。だが…もっと多くを望んでいた」

「何を望んでいた?」

「霧が晴れることを。だが、霧は今も残っている。霊たちの苦しみが消えることを。だが、苦しみは今も続いている」ヨリックの顔に浮かんだ表情の意味を読み取ることはできなかった。「俺はたぶん、自分が変わることを望んでいたんだ」

イラオイはヨリックに対して強烈な同情を覚えた。彼女自身もまた、ヴィエゴを追放したことで霧が晴れれば、シャドウアイルに変化がもたらされると思っていたのだ。けれど、それは私たちよりも大きな力を持つ者の使命だ、彼女は自分にそう言い聞かせた。

「お前たちがヴィエゴを倒したとき、俺は空に光を見た。」ヨリックが言った。「だが、霊たちは解放されなかった。乙女が俺の耳に吹き込むささやきも、いまだに聞こえている。だから彼らに対する俺の責務は今なお続いているのだ」ヨリックは無表情のままイラオイを見つめた。「俺はお前と同じく、聖なる教団の一員。長年の務め…それが俺たちの道だ。忍耐、信仰、献身が」

イラオイはむっとした。「ナーガケイボロスも献身を蔑むことはない。女神が蔑むのは停滞だ」

ヨリックは立ちあがり、窓辺に向かった。「来い、あれを見ろ」

修道院の壁の向こう側に──荒れ果て、霧に覆われた丘陵の何マイルにもわたって──何千という墓石が立っていた。定命の職人たちによって彫られた墓石が、不器用な死者たちが瓦礫からつくったぞんざいな、間に合わせの墓石と並び合っている。無限に続いていると錯覚するような墓場のそこかしこを、ミストウォーカーの動きがかき混ぜていた。

「こんなに大きな墓場を見たことはないだろう?」ヨリックは口元を歪めて言った。

確かに、ビルジウォーターの街全体の半分ほどの大きさがある。

ヨリックは感情を抑え、こわばった声で言った。「この諸島に変化をもたらすものがあるとすれば、それは俺だ。俺は土を掘り、死者に安らぎを与える。そして、俺のまわりの世界を変化させる」彼はイラオイに向き直った。「つまり、俺はお前の女神を讃えていることになる。ちがうか?」

イラオイの信仰はさまざまな信念が網の目のように張りめぐらされることで形成されていた。ひとつひとつは単純な信念であり、明確かつ寛大、人情味のあるものだった。女神と彼女との関係は年月とともに変化していたが、信仰の核にあるものは変わらず強固なままだった。生とはすなわち動き。生をまっとうすることは変化すること。変化とはすなわち強さ。

生者は変わることができる。死者にはできない。

イラオイの信仰が根底から揺るがされているような気がした。死者が自らの世界をつくる?自らの欲望に従う?そんなことはありえない。なぜこの男はそんなふうに考える?

彼女はかつて、生と死の狭間に囚われた存在に動きをもたらしたことがあった。ブラッドハーパーの殺戮鬼、パイクもそのひとりだ。だが、パイクはナーガケイボロスによって恩寵を与えられたが、ヨリックのこの土地において、女神はなんの役割も果たしていなかった。

「だろうね」イラオイも最後にはそう認めた。「死者にも死者なりの動きがあるのかもしれない。だが、ナーガケイボロスは彼らが生きていた年月よりも長くここに留まることは、決してお赦しにならないだろう」

「お前の女神は彼らを生まれ変わらせたいのか?」

「ああ。それもできるだけ早く。たとえ一瞬の時間であろうと、彼らに生を与えないことは罪だ」

「それが俺とお前のちがいだな」ヨリックは言った。「ここの霊たちはまだ“天寿”をまっとうしていない。なのにお前は彼らをここから追放しようとしている」

このまま会話を続ければ、アミュレットの件は永久に片づかないだろう。そこでイラオイは話題を変えることにした。「私が追放しようとしているのはこの霊だけだ」イラオイはチェーンをつかんでアミュレットを持ちあげると、背面の印をヨリックに見せた。「これはあんたの教団がつくったものだが、様式はブールのものだ。このなかの霊を破壊する方法をあんたが知っていればと思ってな」

ヨリックは素手でアミュレットをつかんだ。サラとちがって、このアミュレットに心を苛まれてはいないようだった。

「こいつをつくった女のことを覚えている気がする」彼は言い、本棚のほうを向くと、今にも破れそうな灰色の羊皮紙の束を見つけだした。「その女はブールの船乗りだった。海で多くの死を眼にした彼女は我らの教団に加わり、死にゆく者に平安をもたらすようになった」

羊皮紙は古代ブール文字で埋め尽くされていた。イラオイは昔の言葉を読むのが得意だった。そこに書かれていることによると、アミュレットはサーペントアンバーを磨いた宝石でできているらしい──これはブールの民特有の技術だ。だが、この女職人は高温でその宝石を鍛え、怒れる霊を閉じ込められる結晶に仕立てあげていた。この技術はブレスドアイル特有のものだった。

「俺はブール語が読めん」ヨリックは言った。「何か有益なことは書いてあったか?」

イラオイは古文書を読み進めた。溶鉱炉か何かの絵。魔力がプリズムとレンズを通って一点に集中し、それによって駆動するようだ。回転儀のような、光と炎の発電機。魂を破壊、という説明が添えられている。

これにまちがいなさそうだ。「この女職人はあんたの民の器械を使って宝石を鍛えた。同じ熱をもってすれば、アミュレットのなかの霊を破壊できる」

「溶鉱炉のことか?」ヨリックは悲しげに笑った。「溶鉱炉の石材は墓石にしてしまった」

ふたりは一瞬、ふたたび黙り、考えに沈んだ。サラは今ごろどうしているだろうか。これだけ離れていても、まだアミュレットの声が聞こえているのだろうか。

「手近な解決策がひとつある」ヨリックが唐突に言った。「アミュレットを火山に投げ入れるんだ」

イラオイは彼を一瞥した。「冗談だろう」

「冗談ではない。この1000年のあいだにそんな遠くまで出向いたことはないが、少なくとも、火山はそれだけのあいだ活動を続けている」ヨリックは本棚のまえに戻り、丸められた巨大な地図を取り出した。“滅び”以前のブレスドアイルの地図で、道と街に印がついていた。「これだ」ヨリックは地図の片隅の点を指さした。「スカードーヴァー岩礁。ここから半日の航海だ」

「そこに…むき出しになったマグマがあるのか?」馬鹿馬鹿しいと思いながらイラオイは尋ねた。

「マグマは時間とともに変化する」とヨリック。「だが、かつてはそうだった。俺が若かったころには」

ひとつの考えがイラオイの頭に浮かんだ。パイクのような者でさえ、女神の教えに真実を見出せるのなら、この男にも可能性はあるはずだ。 「あんたはまだ若い」彼女は言った。「私たちと一緒に来てくれ。この王の最期を見届けたいはずだ。もし望むなら、あんたが自分の手で溶岩のなかに投げ込むといい」

ヨリックは咳き込むように、恐ろしい咆哮のような笑い声をたてた。「岩礁があるのは黒き霧の先だ。死者の領域の外に出たら、俺はあまり力になれないと思う」そう言うと、ヨリックは乙女を指さした。「俺の力は死者とともにある。それに1000年間、この持ち場を離れたことがない」

「なら、試してみる絶好の機会だな」イラオイは力説した。「ここを離れてみろ。たった一日でもいい。きっと楽しい経験になる」

ヨリックは少しのあいだ黙り、「実におもしろい考えだ」とつぶやいた。「“楽しみ”のために何かをやる、か」彼は背筋を正し、樽のような胸のまえで太い腕を組んだ。「お前の言うとおりだ。俺にとって、ヴィエゴにとどめを刺す以上に楽しいことはない」




修道院を発つまえ、一行は中庭に集合した。

ルーヴェンはみんなから離れた場所に立っていた。ヨリックが霊たちに命じ、門をあけさせると、一行は外に出た。イラオイは森で拾った海図をまとめ、船長のところに話をしに行った。

「乗組員たちと話はついたか?仲間割れせずに船まで戻れそうか?」

ルーヴェンはイラオイの眼を見ようとしなかった。「ああ。もちろん。ちゃんと戻れる」

「彼らに脅されたのか?私には使命がある。お前や乗組員たちの邪魔が入るようでは困るのだ」それでもルーヴェンはイラオイの顔をまっすぐ見ようとしなかった。苛立ちがイラオイの喉を絞めた。「連中が反乱を企てているなら、そう言え」彼女は小声で言った。

彼は肩をすくめた。「もうわからねえよ。やつらが俺をどうするつもりだろうと、どうでもいい。たぶんこれが俺の最後の航海になる」

イラオイは書き込みの入った海図に眼を落とした。これを使えるのはこいつしかいない、彼女は考えた。海に出れば、この男をまた正気に戻すだけの時間ができるだろう。

彼女はルーヴェンに海図の束を渡した。「任務に集中しろ。献身だ。人生を変えることはできる。だが、そのためには努力が必要だ」

「わかったよ」ルーヴェンは海図を泥まみれの上着のなかに突っ込んだ。

一行は険悪な沈黙のなか、船に引き返した。乗組員の半数が死に、ルーヴェンはもはや残った乗組員たちと口を利ける関係ではなくなっていた。ルーヴェンが舵を取って船を洞窟から出すあいだ、ヨリックは手すりのそばに立ち、砂の上にぽつんと立つ乙女を見つめていた。

「1000年ぶりに彼女のもとを離れることになるな」イラオイは言った。「何かちがいは感じるか?」

ヨリックは襟元から何かを持ちあげた。きらきらした透明な液体が入った小瓶だった。「霧のささやき声は小さくなったが、これがたてる音は…大きくなった」

自分の眼のまえにあるものがなんなのか、イラオイはすぐには理解できなかった。「祝福された水か?」

「そのとおり」彼は小瓶を襟元にしまった。「修道院では、こいつは俺を生かしているだけだった。ここではこいつが俺に力を与えてくれる…そう願おう」




シャドウアイル諸島の終端にある島に到達するには、船をまっすぐ、半日走らせればいい。めいっぱいの速度が出るように船員たちが帆を張り、ルーヴェンは指揮甲板でどんよりとしていた。その肩はうなだれ、両手はずっぽりとポケットに突っ込まれ、暗い眼は水平線を見つめていた──それから、ときどき船員たちを。

イラオイはそんなルーヴェンに近づいた。「ナーガケイボロスについて話をしようと言ってあったな。それから、ビルジウォーターにおけるお前の立場について」彼女は言った。「お前がまだ導きを望むなら、私が力になる」

ルーヴェンは彼女をちらりと見た。その眼には何かが浮かんでいた──恐怖だろうか?「たぶん、またあとでな」彼はぼそりと言った。

「修道院で乗組員と何を話した?」彼らはルーヴェンを手ひどく罵倒したにちがいない。何を言われたにしろ、ルーヴェンはそれについて真剣に考えるべきだった。

「その話はしたくない」彼は言った。「なあ、今は忙しいんだ」

イラオイは肩をすくめ、指揮甲板からおりると、ヨリックと一緒に船首から船尾まで散歩をした。

それがあまりに楽しい経験だったことに、イラオイは自分でも驚いた。ミストウォーカーの軍団が眼に入らない今、ヨリックの信念について心ゆくまで話を聞くことができた。ふたりはひと晩じゅう語り明かした。ヨリックの信念はイラオイの信念と同じく強固だったが、ヨリックが最も大切にしていることはどうにも奇妙に思えた。死者を生の光の下に戻すよりも、癒やすほうが重要だというのだから。

「私には一生理解できないだろうな」彼女は言った。「けど、あんたが本気でそう思っていることは信じるよ」

「理解されるとは思っていない。だが、話を聞いてくれて嬉しく思うぞ」

夜明けまえのいつかの時点で、乗組員のほとんどは下甲板で眠りに就いていた。日が昇るころ、トレインド・ラット号はようやく黒き霧を抜け、目的地が見えてきた。

「あれだ」ルーヴェンが言った。「あの島。水平線上の黒い影がそうだ」

数名の乗組員が手すりのそばに集まった。前方の薄灰色の水平線上に暗い円錐形のしみのようなものが見えた。

「スカードーヴァー岩礁」ヨリックが言った。「俺が生まれるずっと以前には人が住んでいたらしい。ほんとうかどうかはわからんが」

海岸から数海里離れていても、イラオイには硫化水素のにおいが感じられた。さらに近づくと、水平線上の霞がかった影は暗灰色の山に姿を変えた。木の生えていないハゲ山が海岸から火口までの線を描いていた。手つかずのままのごつごつした岩がそこかしこに見受けられる。どの岩も、家よりも大きかった。

船員たちが錨をおろしているあいだに、イラオイは偶像を取りに自分の寝台に戻った。船腹は薄暗く、静かで、聞こえるのは船材のきしみと波が船にぶつかるぱしゃぱしゃという音くらいのものだった。梁から吊るされたハンモックのなかでまだ眠りこけている船員たちの姿もちらほらと見受けられた。

偶像は寝台の上にあった。それをぎこちなく脇に抱え、彼女は下甲板の中央部、砲と砲に挟まれた場所に戻った。

それにしても静かだ。

そのとき、いびきの音すらも聞こえないことに彼女は気がついた。

イラオイは近くのハンモックに手をかけ、自分のほうに引き寄せた。クリストフが横になっていた…が、息をしていない。乾いた唇はひらき、両眼はうつろに虚空を見つめている。魂の存在は感じたが、死者のように横たわっていた。

魔力による静止状態か?自然の力でこんなことになるはずがない。

すぐに次のハンモックを調べた。そこにいた船員もやはり死体のような静止状態に陥っていた。

シャドウアイルを離れる船は、船上の影と同じだけの数の密航者を乗せている可能性がある。

「姿を現わせ」彼女は言った。「誰の仕業だ?」

ぱたん。船のはるか遠くで階段頭上の昇降扉が閉まり、下甲板全体が暗闇に呑まれた。

イラオイは屈み、偶像をつかむ手に力を込めた。下甲板では、戦えるような空間はなきに等しい。この船上で彼女が力を発揮できない唯一の場所だった。「ヨリックと私が別行動するのを待っていたんだな?」

暗闇のなかに青い光がちらちらと燃えあがった。「そうだ」と声が言った。「そして、霧が晴れるのをな。お前の新しい友人は霧を武器のように使うからな」イラオイと階段のあいだの影からルーヴェンが躍り出た。「ふたりきりで話がしたくて」

かすかな光が彼を包んでいた。その背後に、別の何かが立っていた。

背が曲がり、ローブをまとった霊で、ブレスドアイルの学者のような格好をしている。ローブには幾何学的な謎めいた十字模様が描かれ、黒い粘液がこびりついていた。まるで腐敗した沼からあがってきたばかりのように。黒き霧の巻きひげが体のまわりでとぐろを巻いていた。きつく閉じられ、褪せた金色の襟の上に、歪んだ顔があった。顔は皮膚が溶け、垂れさがり、ヒキガエルのように大きな口で上下に二分されていた。唇が引きのばされ、笑みの形になると、小さな牙が何本も並んでいるのが見えた。

「お前がしょうもないことばかりしているのは知っていたが、これは予想外だった。怪物と取引していたとはな」

「俺を助けてくれる男と取引したんだ。俺が欲しかったのはそれだけ──誰かのちょっとした助けだけだ」ルーヴェンの唇がねじれ、苦痛に満ちた笑みになった。「俺はこれまでずっと、骨身を惜しまず働いてきた。そうだろ?俺に必要なのは精神の修行じゃない、イラオイ。助けが必要だっただけだ!」

霊が片手をあげた。その手のなかにオーブがあり、ルーヴェンのまわりでちらつく青い光と同じ輝きを放っていた。霊の体から黒き霧が漏れ出ていたが、オーブからも同じように流れ出ていた。次の瞬間、オーブがまばゆく光り、ルーヴェンの頭がびくびくと奇妙な痙攣を起こした。

イラオイはこの男の性質をひどく読み誤っていた。ルーヴェンが 望んでいたのは、変化のための努力ではなかった。彼の望みは自分の支配者の言いなりになることだった。彼はただ、サラよりも寛容な主を求めていただけだったのだ。

イラオイが攻撃を仕掛けるには空間が狭すぎた。そこで会話を長引かせることにした。「この霊とはどこで知り合った?」そう尋ねながら、大砲と大砲のあいだを前進した。

「バーテクは俺をレイスから救ってくれたんだ」

イラオイは苦い笑いをこらえられなかった。「お前はこいつに利用されているんだよ。自分をしっかり持て、ルーヴェン」

ルーヴェンは躊躇した。だが、オーブがまた輝くと、操り人形のように痙攣し、直立不動の姿勢を取った。

この女を行かせるな」バーテクは言った。その声は耳障りで湿っぽく、沼地から昇る沼気の泡を思わせた。「アミュレットを奪え

イラオイはこの男に先手を取らせるつもりはなかった。無言のまま大胆に一歩を踏み出すと、ひらけた場所から偶像を振るい、一撃でまっぷたつにできるルーヴェンの貧相な体に力いっぱい叩きつけた。

ルーヴェンの体は吹っ飛び、船の反対側の船殻にしたたかにぶつかった。船材が半分に折れた。バーテクは驚きのあまりひるみ、苛立たしげに叫んだ。「愚かな女司祭が!

「自分の代わりに戦ってくれるやつはもっとよく選ぶことだね」彼女は言った。「それか、自分で戦ってみたらどうだ?」

イラオイが近づくと、怪物は意気地なくあとずさり、それが彼女の質問に対する明白な答えになっていた。「我が主はお前の女神なぞよりも強力な武器を私に与えてくださった」彼は言い返した。「それと、私の代わりに戦う者もな

またしても男の手のなかでオーブが輝き…ルーヴェンの体がぴくりと動いた。彼は砕けた体でゆっくりと起き、立ちあがった。

お前にあの男は殺せん」バーテクは言った。その唇が横に大きく割れ、牙だらけの笑みが浮かんだ。川の王様タム・ケンチのナマズのような口にそっくりだった。「あの男は何度でも甦る。私は“魂灯を灯す者”の贈りものの力で、あの男の魂を支配しているからな

魂灯を灯す者──スレッシュか!イラオイはあとずさった。魂を捕らえる遺物…スレッシュからの贈りものだと?女神の名にかけて。そいつはまずい。

ルーヴェンは糸でつながれた棒切れの山のような動きを見せた。両腕と首の筋肉が奇妙な形に盛りあがるのが見えた──本人の意思ではなく、魔力によって突き動かされているのだ。折れた脚をねじらせ、ルーヴェンは尋常ならざるスピードでイラオイに飛びかかった。彼女はその軌道から跳びのき、大砲と大砲のあいだに突っ込んだ。が、偶像を落としてしまった。偶像はルーヴェンとイラオイに挟まれた甲板の上を転がった。

ふたりは動きを止めた。ルーヴェンはイラオイをじっくりと見定めていた。イラオイは鋭く息を吸うと、偶像めがけて突進した。ルーヴェンも前方に駆け、彼女のあばらに蹴りを入れた。砲弾に撃たれたような衝撃が走り、今度はイラオイが吹き飛び、後方の船板を突き破った。偶像はイラオイの手から離れ、まっすぐに船殻を貫き、彼女の体と同じくらい大きな貫通痕をつくった。

偶像の持ち手から指が離れると、ナーガケイボロスとの深いつながりが消えていくのが感じられた。しまった!こうなったら拳でやるしかない。彼女はどうにかして甲板から起きあがると、まっすぐルーヴェンと向かい合った。

「魔力を失ったか?」ルーヴェンは嘲笑するように言った。

「信仰を失ったわけではない。この航海が終わったらお前をまっぷたつにしてやろうと思っていたが…」イラオイは言った。「ナーガケイボロスはその望みを聞き入れてくれるだろう」

だが、ルーヴェンのあごを打とうとイラオイが拳をあげると、バーテクも拳をあげた。その手のなかでオーブが輝いた。甲板上のあちこちのハンモックのなかから、虚ろな眼をした船員たちが起きあがった。板材のように体をこわばらせて。そして、その全員がピルトーヴァーのオートマタのように、ハンモックからいっせいに跳んできた。

「お前は死者を冒涜している」イラオイはうなった。

横になって死ねと私が命じるまで、この者たちは死者ではない!

バーテクがオーブを振るうと、船員たちもイラオイに向かって攻撃の手を振るった。全部で八人、もしくは九人。その一撃一撃がウミアザラシの突進のように強烈だった。イラオイは両腕をあげて顔を守り、攻撃をかわそうと体をひねった。

彼らを撃退しようにも、偶像がなければナーガケイボロスの触手を召喚できない──だが、彼女には拳があった。女神は私のことさえもお試しになっている。だが、この試練、喜んで受けよう!

彼女がひとりの船員の肩を強打すると、板が半分に割れるような音がして、船員の腕の関節が外れた。彼女の膝蹴りを食らった別の船員は吹き飛び、上甲板に通じる階段が砕けた。イラオイは司祭としての修行の合間に学んだ戦闘技術を次から次へと繰り出した。拳をすばやく打ち出す、船の衝角で打つように。脚をねじ込む、島が海底に根を張るように。 ナーガケイボロスに哀悼の祈りを唱えながら、イラオイはクリストフの拳を避け、自分の肩の上に彼の体を担ぐと、甲板の上に叩きつけた。クリストフは額からぶつかり、木板の上に血が跳ねた。

イラオイは後退し、壁にあいた穴を目指して進んだ。船の外に出さえすれば、まともに戦えるだけの空間がある。「船長、お前はとんだ恥さらしだ」彼女は挑発した。「みんながお前を馬鹿にしている」

予想どおり、ルーヴェンの顔が怒りで凍りついた。

「自分が弱いと感じるのはお前が弱いからだ」イラオイは続けた。「誰の助けを借りようと、それはどうにもならない」

ルーヴェンは彼女に跳びかかった。イラオイはその跳躍の力に身を委ね、ふたりそろって船の側璧からまっすぐ外に飛び出した。

彼らは取っ組み合ったまま陽光の下に転がり出た。上甲板の混乱がちらりと視界に入った。ヨリックが船員に囲まれ、攻撃されている。どの船員も青い光に包まれていた。ヨリックはシャベルの平らな部分で女の船員を叩き、船外に弾き飛ばしていた。

次の瞬間、イラオイとルーヴェンは海中に沈んでいた。ここは彼女の縄張りだった──ルーヴェンは人間とは思えない腕力を発揮していたが、この男は泳げない。イラオイは子供のときから荒波のなかを泳ぐ訓練をしていた。彼女は湾底の砂のなかにルーヴェンの体を押しつけると、首根っこをつかみ、そのまま押さえつけた。そして顔面を乱打した。ルーヴェンの歯に当たって自分の拳が切れるまで。

体力を節約できる状況であれば、彼女は水中で五分近く呼吸できる。が、ルーヴェンを殴って屈服させようとしているこの状況では、体力を消耗し、一分半が経過した時点で海面に蹴りあがり、大きく息を吸わなければならなかった。

ルーヴェンは湾の底で力なく痙攣し、巻きあげられた砂を蹴っていた。イラオイはまた湾底に戻り、彼の上着をつかむと、その体を引きずって海岸まで運んだ。「降参しろ」彼女は怒鳴り、もう一度殴った。ルーヴェンは口のなかの水をごぼごぼと吐き出した。「降参しろ!お前の命運は尽きた」

ルーヴェンはすばやく船のほうを一瞥した。イラオイが視線の先を追うと、船首のあたりでヨリックとバーテクが組み合っているのが見えた。ヨリックはバーテクの喉をつかんでいたが、バーテクはオーブを持っているほうの手を宙に掲げ…

オーブがまばゆい白光を放った。イラオイは激痛のあまり膝をついた。まるで炎の槍で頭頂部を貫かれたようだ。女神の名にかけて、今のはいったいなんだ?痛みがひどく、動けなかった。

ルーヴェンが砕けた手足で彼女のもとに這ってきた。その手には短剣が握られていた。「バーテクの主はあまりに強大だ、イラオイ」彼は言った。「俺たちはみんな、誰かに仕えている。バーテクが仕えている亡霊は神のごとき力を持っている。いいから…おとなしくバーテクにアミュレットを渡すんだ」

数週間前、イラオイはまさにその“神”を倒していた。「断わる」そう絞り出すのがやっとだった。

焼けつくようなオーブの光がまた船上で輝いた。痛みはさらにひどくなった。イラオイは歯を食いしばった。肉体から精神が引きはがされるようだった。

「降参してくれ」ルーヴェンは彼女に頼んだ。「耳から魂を吸われ、操り人形にされちまうぞ。俺がそうなったように」

やれるかどうか…見せて…もらおうじゃないか

イラオイはどうにかして腕を持ちあげると、手の甲でルーヴェンをビンタした。ルーヴェンはそれをまともに食らい、大の字に倒れた。

次の瞬間、イラオイの頭上を影が覆い、バーテクに投げられたヨリックが彼女の隣に落ちてきた。ヨリックはぐったりしていたが、まだ生きていた。

黒き霧の巻きひげをまといながら、バーテクが身を屈め、イラオイのベルトから錠箱を外した。「これはいただくぞ」そう言って、彼は喉を鳴らした。

「私を治してください、主よ」ルーヴェンが懇願した。「お願いです…死んでしまいます」

バーテクは咳き込むように、平板な、軽蔑に満ちた笑い声をたてた。「断わる

バーテクはすぐにこの場を去るつもりだ。時間がなかった。イラオイはヨリックに向き直った。「墓守よ」彼女はささやいた。

ヨリックは眼をしばたたくと、顔を左右に振って我に返った。そして、地面に手をついて立ちあがろうとしたところで、慌てて手を引っ込めた。まるで火傷でもしたかのように。「この下に何かある」彼は言った。「死者だ。死体がいくつも」

ルーヴェンは仕えたばかりの主のローブの裾をつかんでいた。「まだ死にたくないんです」

この男が生き延びることはないだろう、イラオイはそう悟った。だが、乗組員たちはまだ助かるかもしれない。彼女はバーテクを一瞥し、次にヨリックを見た。「死者を呼び出そう」

ヨリックは眼を閉じると、「立ちあがれ」と死者たちに命じた。「お前たちに仕事がある!




音よりも先に震動が伝わってきた。

砂が踊った。火山の斜面の広範囲の灰が彼らめがけて滑り落ちてきた。バーテクはまわりを見まわし、急に不安に駆られたようだった。彼らの足元の深いところ、海の下の岩盤のなかで、何かがひび割れた。

そして、霊の大波が立った。

ヨリックの手のひらの下で大きくなりつつある裂け目から、怒れる霊の奔流があふれた。霊たちは砂の地面から飛びあがり、イラオイの周囲を漂った。彼らの怒りのうなり声はあまりに深く、濃密で、息ができないほどだった。硫化水素のにおいがした。霊たちの焦げた、透明な体で大気が埋め尽くされ、まわりの地形が歪んだ。

ヨリックは手を持ちあげ、バーテクめがけて勢いよく振った。鞭のような音とともに黒き霧がヨリックの背後から流れ出て、バーテクを打った。その周囲で霧が大波となり、渦を巻いた。

「あの男は霧のしもべだ」ヨリックは叫んだ。「その霧がそなたらをここに閉じ込め、そして目覚めさせたのだ!」

霊たちはにおいに群がる猟犬のようにバーテクのもとに殺到した。

「殺せ」ヨリックは命じた。

霊が間欠泉のように噴きあがり、バーテクを仰向けにひっくり返した。まわりの砂は叩きつけられ、地面に大穴があいた。怒れる死者たちはバーテクのローブを裂き、拳で殴りつけた。彼はもだえ、叫んだ。霊たちの地獄の業火のような拳の一撃一撃がバーテクを焦がした。

彼の手のなかで何かが光った。錠箱だ!イラオイは痛みを押して立ちあがった。砂が泡立ち、攪拌され、何百という霊がそこから噴き出た。霊たちの激流が彼女の髪をかき乱し、嵐のように吹きつけた。踏んばっているのがやっとだった。

つまずきながら歩を進め、イラオイはバーテクのローブをつかんだ。霊が彼女の周囲でもだえ、バーテクを打とうと躍起になって叫んでいた。その体をつかもうとすることは、竜巻のなかで旗をつかもうとするようなものだった。イラオイはバーテクの体を引き寄せた。「アミュレットを返せ!」

これは我が主のものだ」バーテクは吠えた。

イラオイが彼のあごを殴ると、何かが砕けた感触があった。「お前の主は死んだ。私と私の仲間が殺した!」

だが、そのとき、バーテクの顎がのたうち、本来の位置に戻った。「ちがう」バーテクはうなった。ねじれ、たるんだ唇からタールがあふれ出た。「あのお方はまだ生きている!

彼はオーブを振りかざした。が、イラオイがそれをつかんだ。そのなめらかな表面に触れると両手が燃えるようだったが、イラオイはどうにかしてもぎ取った。同時にオーブから最後の閃光が放たれた。彼の周囲の霊たちがひるみ、叫び、イラオイは仰向けに倒れた。

海の上空に飛びあがるバーテクの姿が見えた。錠箱は粘液にまみれた彼の手のなかにあった。彼は勝ち誇ったようにそこに浮かび…

次の瞬間、霊の群れが彼を捕らえた。死者たちはバーテクを呑み込み、猛烈な突進が彼の体を水平線めがけて押した。バーテクは砲弾のように、しゅうしゅうと海面上を飛んでいった。その軌道の左右にしぶきを立てながら。

「駄目だ」ヨリックが死者たちに向かって叫ぶのが聞こえた。「待て!」

死者たちは命令を無視した。怒れる霊たちは海を沸騰させ、イラオイの敵とその使命を遠ざけていった。沖合で何かが爆発し、船のマストほどの高さのしぶきが立った。少し遅れて、さらに岸から離れたところで、もう一回爆発した。霊たちの動きはどんな船よりも、サーペントスティードよりも速かった。

イラオイはバーテクのオーブを地面に落とし、膝をつくと、砂に額を押しつけた。失敗だ。ヴィエゴを奪われた。

ヨリックが彼女の隣にくずおれ、「今のは死者たちがやったのだ。俺ではない」と声を絞り出した。

「使命を果たせなかった」彼女は言った。「サラの期待に応えられなかった」

「サラ?」

イラオイは力を振り絞り、起きあがった。「私の親友だ。彼女にこう言った──いや、約束したんだ。あれは私が破壊すると」サラが私を必要としていたのに。そんな肝心なときに期待に応えられなかった。女神よ、どうかお赦しを。

ヨリックは霊の群れが次から次へと海上にあふれ出る光景を眺めていた。「俺は自分に制御できないものを解放してしまったようだ。彼らはあの岩の下に何百年ものあいだ閉じ込められていた。 死者の街。痛みと怒りに満ちた…彼らは復讐を望んでいた…そして、あの者は彼らを目覚めさせた黒き霧の住人だ」

死者たちの最後の群れが地面から噴き出し、海に注いだ。イラオイには彼らの怒りが消えていくのが感じられた。「死者たちはどうなるんだ?」

「あの者たちがアイルに戻るつもりなら、俺がきっと見つけてみせる。だが、ヴィエゴを奪ったあのカエル男は見つからんだろうな」

ふたりはどうにか立ちあがり、戦いが繰り広げられた場所を調べた。船員に対するバーテクの支配は解けていた。数名が海辺に倒れていて、それより多い数の船員が船の手すりにぐったりともたれていた。ルーヴェンも近くに倒れていた。砂の吹きだまりのなかに半分埋まっていた。イラオイが確かめたが、脈はなかった。「死んでいる」彼女はヨリックに言った。

「だが、魂はまだここにある」

そう言うと、ヨリックはルーヴェンの傍らに膝をつき、彼の肩に手を置いた。イラオイが見ていると、ルーヴェンの霊が肉体から抜け出てきた。まばゆい朝の光のなか、ほとんど眼に見えない青白い光となって揺らめいていた。

彼の声は弱々しく、こだまとなって響いた。筒の反対側からささやきかける声のように。「 俺が死んでる!」彼は叫び、うろたえた。「神々よ。俺は死んじまった

ヨリックは霊の手を取った。「大丈夫だ」彼は言った。「お前は自分の肉体を離れた」

ルーヴェンはショックを受け、理解できないといった顔で自分の砕けた死体を見つめた。

「すべてをこのまま残していけばいい」ヨリックは言った。「お前が心の平安を見つけられるよう、私が起こしたのだ」

ルーヴェンは凍りついた。「心の平安を見つける?

「何か言うべきことはあるか?」ヨリックが尋ねた。「やるべきことは?」

心の平安なんか見つけるつもりはないぜ。俺の乗組員たちがいないんじゃ」ルーヴェンは言った。「俺はあいつらの船長だ。あいつらに借りがある」彼はあたりを見まわした。「あの悪霊の持っていたオーブはどうした?

イラオイは唖然とした。死の瞬間を迎えてはじめて、ルーヴェンは乗組員たちのことを考えられるようになったのだ。女神よ、ヨリックの言ったとおりだった。死者は変われるのだ。

「オーブなら私が持っている」イラオイは言った。「使い方を知っているのか?」

そこに俺の魂が閉じ込められてる」ルーヴェンは言った。「仕組みはわかる気がする。そいつで俺を救うことはできない…けど、部下たちを救うことはできる。あいつらがまだ死んでないなら

「俺が彼らを癒やす。力を貸してくれ」ヨリックは頼んだ。「どうすればいいか教えてくれ」

ルーヴェンはイラオイに向き直った。その顔は間抜けなほどにやけていた。この男と出会ってから初めて見た本物の笑みだった。「女司祭、よく見とけよ」彼は言った。「俺に何ができるか見せてやる

そして、彼はヨリックの手をつかむと…消えた。

ヨリックは海辺を駆けまわった。海辺の船員たちは死の際にあった。ヨリックは誰にまだ魂が残っていて、誰がすでに死んでいるかを見分けられるようだった。ルーヴェンの知識に導かれ、ヨリックは死体から次の死体へと走った。オーブが彼の手のなかで輝くと、船員たちは息を吹き返した。

クリストフが咳き込みながら息を吹き返すのを見て、イラオイは思った。ヨリックは生者と死者を癒やしている。女神は彼のことをどう思っているのだろうか?

だが、ヨリックのことをどう思えばいいか、女神が教えてくれることはないだろう。彼女が自分自身で決めなければならない。それが女神の望みだった。




その晩、偶像を湾の底から引きあげたあと、イラオイとヨリックはルーヴェンとほかの死者たちを埋葬するため、火山に登り、火口のそばまで行った。

「ここはすばらしい眺めだ」ヨリックが言い、最後の墓穴に土をかけると、熟練の職人のようにシャベルをかまえた。

イラオイは火口の縁に近づき、下を覗き込んだ。黒いマグマ溜まりが見えた。赤い亀裂が走っている。どう感じたらいいかわからなかった。「彼らの霊魂はこの高みから、世界のすべてが滅びに包まれるのを目撃するのだろうな」

隣にヨリックが立っていた。「そうはならないだろう」彼は言った。「たとえヴィエゴが全世界を滅ぼそうとしても…だ。死者には死者の意思がある」彼はイラオイを見た。「若いころ、ヴィエゴを打倒せんとする者たちに会った。それも、幾人にも。彼らが力を貸してくれるだろう」

イラオイはしばし考えた。死者たちがヴィエゴと戦うために立ちあがる?以前、同じような光景をシャドウアイルで見たことがある。だが、そんなのはめったにあることではない。ヨリックがいてくれたら、別の未来もありえるということか?死者の霊たちとブールが同じ目的のために手を組む?ありえない気がする。だが…

「俺が彼らを助けよう」ヨリックは約束した。

イラオイは心の奥底に奇妙な希望が芽生えるのを感じた。「あんたはいい心を持っている。あんたのその能力、ナーガケイボロスの約束が現実になったもののように思える。死者を淀みから動かす力…そんなものはこれまでに見たことがない」

ヨリックは肩をすくめた。「俺はやらなければならないことをしているだけだ」

「ちがう」イラオイは譲らなかった。「あんたは誰もが期待する以上のことをしている。ルーヴェンの魂を解放した。死んでいるあいつを動かした。そして、囚われた死者たちに動きをもたらした」

そう話しながら、イラオイは自分の内側でその衝撃が大きくなりつつあるのを感じた。もしそんなことが可能なら、彼女はいつの間にかそう考えていた。もしそんなことが可能なら、どんなことでも可能なはずだ。友人たちに動きをもたらすことも。サラに自由をもたらすことも。私たちみんなにとって、よりよい世界をつくることも。

「ナーガケイボロスが私たちを引き合わせたのには理由がある」彼女は続けた。「古代の民がそうしたように、我らはお互いから学ぶことがあるはずだ」さまざまな可能性が心に浮かんだ。古代ブールの民とブレスドアイルの学者たちは力を合わせ、あのアミュレットのような驚嘆すべきものをつくった。彼らに足りなかったのは共通の目的、ひとつの目標に向かって一致団結できる使命だった。「あんたの教団の仲間がこの世界に望んだもの、私の信条が追い求めるもの──どちらも同じものだ。変化と成長。そして解放」

「だが、お前の教団のほかの者が賛成するかどうか」ヨリックは笑った。

「私が説得してみせる」イラオイは約束した。

「ありえない話ではないな。俺がまだ若かったころ、俺たちは親しい関係だった。それはともかく、ひとまず修道院に帰らなければならない。あそこの霊たちは俺が見てやらなければ」

乙女か、イラオイは思った。「それがあんたたちの道だ。忍耐と献身。あんたが言ったとおり。けど、いつかあの地を離れる気になったら、ブールの民はあんたのような高潔な僧をいつでも歓迎するだろう。ヴィエゴとの戦いには仲間が必要だ」

ヨリックは眼下のマグマを眺めると、「高潔な僧か。そんなふうに言われたのは初めてだ」と嬉しそうに言った。